こらん草 (一筆抄)                    


―太平洋戦争を振り返って 4.―

                    
     終戦への道程     日夏 もえ子



  

 

        
     
「太平洋戦争を振り返って」 4.    
                 ― 終戦への道程 ―                                          
2015年2月9日  
 

           今まで3回にわたって、太平洋戦争を綴ってきましたが、気が重くなる作業でも
        
ありました。
          
誰も苦難な時代を生きたくはなかった筈ですが、巡り合わせで世界史が塗り替え
        られる激動の時代を生きねばならなかった人々の心中を想いながら書きました。
    
このなかから、平和への希求を読み取っていただければ幸いです。
    
さあ、最終章です
!

    1.
東京大空襲
          
    1945(
昭和20)年3月10日未明、マリアナ諸島のサイパン、テニアンなどの
         米軍基地を飛び立ったB29爆撃機334機が東京の下町(現在の江東・墨田区)
   焼夷弾を次々に投下した。
    B29
による夜間低空の無差別攻撃だった。
    
火焔地獄の中、10万人を超える人々が焼死、約26万戸が全焼したと言われる。
    
当日は30メートルの強風も吹き、逃げ惑う人々の足元には所々、焼け焦がれた
        遺体が道を塞いでいたと伝えられる。
    
4月には、東京西部地域、5月には山の手地域が空襲にさらされ、東京の半分が
         焼け野原になった。

          また、3月13日夜から14日未明にかけてB29機、270余が大阪を襲い、約7
   
万個の焼夷弾を投下し、大阪市内を焼き尽くしたと伝えられている。
    3000
人余が亡くなり、焼失家屋は13万戸に上ったと言われる。
   
3月17日には300余機のB29が神戸を来襲し、8月までの度々の夜間空襲により、  
       約8800人が焼死、約15万戸が全焼したと言われている。
   
空襲は地方都市にもおよび、日本中が恐怖にさらされることになった。

    2.カイロ宣言
    
           1943(
昭和18)1127日、ルーズベルト()、チャーチル()蒋介石()は、
   
対日戦後処理の方針である「カイロ宣言」に調印した。
        
「日本国が清国人より盗取した」満州、台湾、澎湖諸島を中華民国に返還すること。
        
「朝鮮の独立の回復」「太平洋諸島の放棄」などが明記された。

     3.ヤルタ協定
    
    1945
24日から11日まで、ルーズベルト()、チャーチル()、スターリ
         ン(ソ連)3首脳がクリミア半島(ソ連)のヤルタで会談した。
          
戦後処理問題が討議され、ヤルタ協定と極東問題に関する秘密協定が結ばれた。
         
ヤルタ協定では、「独軍の武装解除」「独領土を4分割し、米英ソ仏による分割管
         理」国際連合の機構については、「米英ソ中仏5か国が常任理事国になり、7理事国
         を加えて安全保障理事会を設置する」ことなどを取り決めた。
       
         
 211日にルーズベルトとスターリンの間でソ連の対日参戦を含む極東問題が非公
       式に協議され、「ヤルタ秘密協定」が結ばれた。
        
『独軍降伏後、2.3か月以内にソ連が参戦する。その条件として「南樺太とそれに
       付属する諸島をソ連に返還」「「千島列島の引き渡し」「大連・旅順を海軍基地と
       してソ連に租借する」「東清鉄道、南満州鉄道はソ連・中国の合弁企業となる」こと
       などが明記された。


         
ルーズベルトがソ連参戦を求めたのは、原爆を保有してない米国が日本本土上陸
        作戦で、米軍の犠牲を少なくすることを念頭に置いていたためと言われている。
        
ソ連軍が満州に侵攻し、日本軍を動かせないようにすることを望んだと言われる。
        
この協定により、ソ連は194589日午前零時ごろ、日ソ不可侵条約を破棄し、
   満州に侵攻した。
         ソ連軍は激しい雨の中、奇襲作戦で関東軍の脆弱な国境の守りをついた。
   東部国境では、ソ連の第1極東方面軍の主力と第2極東方面軍の一部が関東軍と
   交戦した。
   西部国境からは、ザバイカル方面軍が進撃してきた。
   関東軍は勇猛でならした軍隊であったが、主力部隊の大方が苦戦の南方戦線に
       抽出されたため弱体化していたと言われる。
        兵力こそ42年当時と変わらない70万人を擁していたが、満蒙開拓団を始めとす
  る壮年男子15万人を動員したものだつた。
   戦闘訓練、装備においても劣り、弾薬も不足していた。
   最新の戦備を持つソ連軍に反撃するのは無理だったと伝えられている。
   日本軍将兵約60万人は捕虜となりシベリアに抑留された。
        
凍るような寒さの地で、過酷な重労働をさせられ約10万人が死亡したと伝えられ
       ている。
        
ソ連侵攻により、満州では日本人開拓民の悲惨な逃避行が始まった。
   ソ連軍兵士は、略奪と暴行を繰り返すなど非道の限りをつくしたと言われる。
   逃避行を続ける人々を飢餓と酷寒と疫病が襲った。
   年寄りや幼い子供は、力尽きて死亡した。
   80余あった開拓団の中で、集団自決などで全滅した開拓団は10に上り、死者は
  約7万人余と言われている。
   また逃避行中に子供たちと生き別れになる残留孤児問題が発生することにもなった。
    
   ヤルタ
会談の開かれた場所と時はソ連に味方したと言われる。
        
ソ連は開催国として、会談運営も巧みだったと言われている。
        
即ち、ルーズベルトを議長に推して米国を調停役に回し、米英の結束を回避して有
       利に進めることが出来た。
       
さらにヨーロッパの西部戦線では、ドイツの最後の猛反撃により苦戦気味であるのに
       比べ、東部戦線では、ソ連軍が快進撃のもとベルリンに迫り、東欧諸国はこの時、ソ
       連の影響下にあった。
      
スターリンにとって、またルーズベルトにとってもソ連の対日参戦の約束、かねてか
      ら望んでいた国連を創設することが決まり、満足のいく会談だったと伝えられている。

   
 4.ポツダム宣言

   ルーズベルトは1945412日に脳出血のため死去した。
   
大統領になったトルーマンがポツダムに向う折り「私の旅の主目的は、対日参戦に
       ついてロシアの最終的な合意を取り付けること」と語っていた。
        
ところが、ここに状況の変化が生まれた。
       
 716日、米ニューメキシコ州の砂漠で、米国が製造した原子爆弾3つのうち1つが
       さく裂して、「前代未聞のすさまじい閃光に包まれ」核実験が成功したのだ。
        
トルーマンは、後に「我々は、戦争に革命をもたらすだけでなく、歴史や文明の
       流れを変えられる武器を持つに至った」と述懐した。
        
チャーチルは「回顧録」で述べている。
      
「我々は突如として、極東における殺戮戦(さつりく)の短縮に恵まれた」
      
(トルーマン)大統領と私は、日本を征服するために彼(スターリン)の援助を必要
       とするとは、もはや感じていなかった」
        
トルーマンは、「私は、それを使うことに疑念は持たなかった」と語っている。

      
  1945726日にベルリン郊外ポツダムにおいて、トルーマン、チャーチル
         (
途中からアトリーと交代)、スターリンが会談し、ヨーロッパの戦後処理と対日
       無条件降伏勧告宣言を中国の蒋介石総統の同意を得て米・英・中3国の名において
       発表した。

   日本軍国主義者・戦争指導勢力の除去、連合軍による軍事占領、カイロ宣言に基づく
  領土宣言、民主化の促進、戦犯の処罰などを条件に無条件降伏の最後の機会であること
      を通告した。

    5.原爆投下

   ポツダム宣言を無視する日本に対して広島、長崎に原爆が投下された。
   
米国が原爆投下を急いだのは、ヤルタ密約で取り決めたソ連の対日参戦が迫っている
  ことと、戦後の主導権をめぐる米ソの思惑が絡んでのことだったとも伝えられている。

   原子爆弾を搭載したB29爆撃機エノラ・ゲイは86日、日本時間の午前145分、
      テニアン島を飛び立った。
      
午前815分、高度9600mから投下された爆弾は、広島市大手町1丁目、島病院の
     上空約600mで爆発した。
      
原爆の熱線は、多くの人々を直撃した。子供を抱いたまま黒焦げになった母親、身体
      が焼けただれながらも「水をくれ」とさまよう人々。
      
阿鼻叫喚とは、このことを言うのだろうか。
      
市内各地は、地獄のような状況を呈していた。
     
「黒い雨」も降った。
       
広島市は、太田川の扇状地に中央官庁の出先機関や大学、中国管区司令部などの軍事
       施設が集中していた。
       
市街は一瞬のうちに焼き尽くされた。
       
        私の従姉は現在83歳になるが、当時、軍用施設があった広島市宇品の学校の校舎の
  中にいたため、熱線をあびずに済んだ。
   
宇品は爆心地から3キロ以上離れていたため、比較的被害が軽微で済んだと言われる。
   
宇品に駐屯していた陸軍船舶歩兵連隊、通称「暁部隊」は、市街中心部での救援・
      医療活動に中心的な役割を果たしたことでも知られている。
       
暁部隊には、研究者の丸山眞男、物まね芸人の江戸屋猫八などがいた。

    従姉は、2日後に家族と島根県に疎開したが、市内で折り重なった人々の無残な黒
     焦げの遺体、そして馬や牛の死体を目にしたと言う。
      
駅に停まったままの電車の中には、被爆した人々のご遺体が折り重なっていたそうだ。
  
彼女は、「30万人が被ばくして犠牲になり、4万人が無事だった」と私に話したが、
  
正確な人数は、はっきりとは把握出来ない。
     
広島市では、この年(1945)12月末までの被爆死亡者数を約14万人と推定している。
     
平和記念公園内の慰霊碑に収められている原爆死亡者名簿の人数は、20143月時点
    で28万人を超えたと言われる。
     
原爆被災者の中には、日本に動員された朝鮮人もいた。

     
B29爆撃機ボックス・カーは89日午前11時過ぎに原子爆弾を長崎浦上地区
  
に投下した。
      
長崎市の中心街は、金比羅山の南側にあるが、浦上地区は山の西側に位置している。
  
被爆による死者は約7万余人と推定されている。
  
爆心地から700mの距離にある長崎医大の診察室で被爆した永井隆医師は、右側
     頭動脈切断という重傷を負いながら布を頭に巻き救助活動に当ったと言われる。
      
投下された爆弾が原子爆弾だと知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでから
    だった。
      
医師であり、随筆家でもあった永井は「この子を残して」「長崎の鐘」などの著書が
    ある。
    
「長崎の鐘」の歌は、昭和30年、40年代にはよく歌われ、私もときどき「ああ、
     長崎の鐘がな〜る」と口ずさんだものだ。
     
米国大統領・トルーマンの原爆投下にゴーサインを出した非情さ(殺戮)は、改めて
   戦争の酷さを浮かび上らせる。
     
広島、長崎への原爆投下と9日のソ連軍満州参戦を受けて、日本はやっとポツダム宣
     言受諾への舵を切ることになった。


    6.終戦への決断「最高戦争指導会議」
 
      
   「1945(昭和20)年8月9日午前10時30分から、鈴木貫太郎首相は宮中にて
       最高戦争指導会議を開き「ポツダム宣言受諾受入れ是非」を検討した。
       
天皇の国法上の地位を変更しない=「国体護持」を条件に受諾を主張した東郷茂徳
       外相、米内光政海省。
   対する阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武(そえむ)軍司令部総長などは
      「占領は小範囲、小兵力で」などの条件を持ち出し拒否に近い主張で対立した。
       
会議のさなか、長崎に原爆が落とされたが、なおも結論は出なかった。
       
戦争を終結したい鈴木は、天皇をお迎えして宮中の地下防空壕で夜12時近くから
     
御前会議(最高戦争指導会議)を催した。
      

   結論が出ない中、鈴木は昭和天皇の「聖断」を仰いだ。
        
天皇は「それならば私の意見を言おう。外務大臣の意見に同意である」

      
       
閣議も午前4時前に「国体護持」を条件に受諾を決めた。
       外務省は10日午前9時、スイス、スウェーデン両政府に受諾の電報を発し、連合国
  側に伝達した。
   
しかし、「降伏」が伝わると陸軍内にはクーデターによる阻止論が浮上した。
      
   
12日夜、バーンズ米国務長官名で連合国の返書が届いた。
     
「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官の制限の下に置かれる」
  「最終的な日本国の政府の形態は、日本国民の自由に表明する意思により決定される」
   となっていた。

      「国体護持」がはっきりしない文言のため、陸軍は一層態度を硬化した。
       
将校たちは、阿南に「受諾阻止」を迫ったと言われる。
   
鈴木首相は軍の不穏な空気を察して、最高戦争指導会議と閣議と合同で再び、14日
   午前11時ごろ御前会議を開いた。
   阿南、梅津、豊田は、連合国の回答では国体護持は困難だとして、戦争継続を主張
  したと伝えられている。
       
   
昭和天皇は「私の考えに変わりはない。私自身はいかになろうとも国民を守りたい」
     と断言され、さらに「国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ」
     とも述べられた。

      
   
その後の閣議で、終戦の詔書を天皇ご自身が録音盤に吹き込み15日正午、国民に
  ラジオで呼びかけられることが決まり、詔書の内容についても議論が交わされた。
  
詔書は、10日の御前会議の天皇の言葉を参考に、内閣書記官長の迫水久常の下で
     草案が練られ、大東亜省顧問で陽明学者の安岡正篤らが手を加えた。
     
   
総督府長官(朝鮮)を務めたこともある阿南陸相は、辞任 (その場合鈴木内閣は瓦解し
      て終戦への動きは頓挫) をもらさず、陸軍の軽挙妄動を抑えたと伝わる。
  
       15日午前0時過ぎ、
降伏に反対する陸軍省軍務課の畑中健二少佐ら4人の将校が、宮
     城を護衛する近衛第一師団の森赳師団長を殺害し、偽の師団長命令書を作成し、師団
     を乗っ取った。宮中と外部をつなぐ電話線も切断したと言われる。
   また、宮中にある録音盤を奪おうと捜索を始めた。
      
しかし、近衛師団を指揮する東部軍司令官の田中静壱大将が宮中に乗り込み、青年将
  校らを拘束し、事件は収束したと言われている。
  
   
15日朝のラジオ放送は、天皇が「本日正午、おん自らご放送あそばされます。
      国民もれなく厳粛なる態度で、かしこき御言葉を拝し得ますよう」にと予告した」
       
よって多くの国民が受信機の前で、天皇の声(玉音)を待った。
       
内地だけでなく、中国の占領地や朝鮮、台湾、南方でも同じだった。
   
国民は当時、「臣民」であり「天皇の赤子(せきじ)」だった。

  
「世界の大勢と帝国の現状とに鑑(かんが)み、米英中ソにポツダム宣言受諾を通告し
      た。 交戦を継続すれば、わが民族の滅亡を招来するのみならず、人類の文明をも
    破却する。時運の趨(おもむ)く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世のため
      に太平を開かむと欲す」

  (*
読売新聞引用 「昭和時代 第4部 敗戦・占領・独立 」2014年5月3日付)

        8月15日正午、人々は玉音放送で終戦を知った。
   
皇居前広場では、ひざまずき、泣き崩れる人々や、頭を垂れる人々の姿がみられた。
  
しかし、内大臣・木戸幸一の日記の覚書には「広場の群集の中から『万歳万歳』という
  声がしばしば聴かれたとあり、『国民が絶望的な戦争に堪えきれず、如何に平和を望
      んで居たかが如実に示された様に思はれた』と記されている。

       1931(昭和6)年9月の奉天郊外で起こった柳条湖事件に始まる日本の満州への軍
  事行動である満州事変に始まり、1937(昭和12)年の盧溝橋事件を機に本格化した
       日本軍の中国侵略である日中戦争から日米戦争に至る太平洋戦争(大東亜戦争)は、
     3年8か月余の時を経て、やっと終わることになった。
  
    
  
(日本が米国との開戦を決意するきっかけとなったのが、1941(昭和16)年11月26
       日の夕方、米国務長官コーデル・ハルが日米交渉の最終提案ともとれる「合衆国及
   び日本国間協定の基礎概略」、いわゆる「ハル・ノート」を野村吉三郎駐米大使らに
   手交したことだった。
  @中国、仏印(現ベトナム・カンボジアなど)からの全面撤兵A蒋介石政権(重慶政府)
   以外の中国政府の否認(南京の汪兆銘政府)B日独伊三国同盟の形骸化
   厳しい内容で、東条英機首相らは、米国の最後通牒、宣戦布告と考えた。
   日本は、12月1日の「御前会議」で開戦を決定した)

  1945年9月2日、東京湾上の米国戦艦ミズーリ号上で降伏文書が調印された。
  
日本側は政府代表・重光葵外相と大本営代表の梅津陸軍参謀総長が、連合国側からは
  米・英・仏・ソ・中など9か国の代表が署名して、太平洋戦争は終結した。
  
日本は、1945年から6年余にわたり連合国軍(主として米国)に占領された。

  太平洋戦争の犠牲者総数は、軍人・軍属・民間人を合わせて310万人に上った。
  
内訳は、軍人・軍属が約230万人、空襲や原爆などで犠牲になった民間人が約80
  万人と言われる。
  
約240万人が日本本土以外で死亡している。
  
今まだ遺骨113万柱は、フィルピン、ミャンマーなどの南方、旧満州(中国東北部)
  旧朝鮮(北朝鮮民主主義共和国)などに眠っている。

     
日本は太平洋戦争により、アジアの国々と人々に多大の苦痛と甚大な被害を及ぼして
    しまった。
      過去を修正することは出来ないので、戦後日本が70年間平和の道を歩み、世界の
  人々に尽力してきたように、今後も謙虚さを持って、人道支援、技術支援などの分野
  においての国際貢献を進めて行くことがとても大事なことのような気が致します。

      韓国のことは今回書けませんでしたので、過去の記述をお読みいただければ幸いです。
 

      韓国併合100年

   
長文にお付合いいただき有難うございました。

     

    *参照 
   読売新聞「昭和時代 第4部 敗戦・占領・独立 」2014年4月12日付
   
産経新聞「子供たちに伝えたい日本人の近現代史」 2014年7月27日付
                           2014年8月3日付
 

 
 

 


            HOME