こらん草 (一筆抄)                    


―太平洋戦争を振り返って 3.―

                    
 日本軍の苦戦     日夏 もえ子



  

 

         「太平洋戦争を振り返って」 3. 
     
     
           ―日本軍の苦戦―          
             2015年
2月4

     
1943(昭和18)年4月18日の朝、「連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将」は  
      ラバウル基地から陸上攻撃機に乗り、南東約400キロのブーゲンビル島のブイン
      基地に向う途中、ブーゲンビル島上空で待ち伏せしていた米軍機16機に撃墜され、
      搭乗機がジャングルに墜落し即死した(享年59)
    すでに
海軍の暗号は、ミッドウェー海戦直前に米軍に解読されていて、山本長官の
      移動暗号電文も米軍には筒抜けだったと言える。
     
日本の英雄であった山本海軍大将の戦死は、国民や前線の戦士たちに深い衝撃を与え
      ると同時に今後の成り行きを暗示させるものとなった。
        19428月の米豪軍によるガダルカナル島上陸から、442月の米豪軍のラバウ
      ル上陸と日本軍の撤退までの間に、日本軍はソロモン諸島近海において多くの艦船や
      航空機と兵員を失った。
     
いよいよ米国などの連合軍は、日本本土に攻撃の焦点を合わせてきた。
      
1943年5月、連合軍はアリューシャン列島のアッツ島に上陸し、日本軍の守備隊
      が玉砕した。
       
11月には、連合軍がブーゲンビル島に上陸、44年2月には日本連合艦隊が拠点
      としていたミクロネシアのトラック島を爆撃され、連合艦隊の主力は内地(日本)へ、
      遊撃部隊はパラオに撤退を余儀なくされた。
       
敗色ただよう中、日本海軍は44年6月3日にボルネオ島北にあるタウィタウィ泊
      地に空母部隊(小沢治三郎中将)と戦艦部隊(栗田健男中将)を結集させた。
      
また、マリアナ諸島のサイパン、グアム、テニアンなどに空軍基地を作り、1,600
     
余の飛行機を配備して連合軍側を迎え撃とうとした。
       (
第一次大戦後、これら南洋諸島の国々は日本の委任統治領となっていた)

  
    1.    サイパン陥落
       
       
サイパン島は、大本営が439月に設定した「絶対国防圏」の要だったが、陸軍が
     守備隊の主力として名古屋の第43師団約16千人を2回に分けて送ったのは44
     5
月以降で遅かったと言われている。
       
19日に第1陣がサイパンに到着すると東条英機首相は、政府大本営会議で
     「サイパンの防衛はこれで安泰である」と語り、「けっして敵に占領されることは
       ない」と胸を張った。
        第2陣部隊は米潜水艦の魚雷で次々と撃沈された。
       
6月11日に米空母艦載機によるサイパン爆撃が始まり、13日には戦艦8隻で
        海軍艦隊が包囲した。
       
飛行場や司令部などは艦砲射撃で焼失した。
       
6月15日朝、米軍は海兵隊と陸軍3個師団約6万3千人が上陸した。
       
日本軍は急きょ、小沢艦隊をマリアナ沖に向わせ、日本の誇る空母9隻を投入して
      マリアナ沖海戦に臨んだ。
       
戦力は、米軍が空母13隻、艦載機約900であったのに対して、日本軍は空母9
      と艦載機約400機であり、明らかに差があった。
       
小沢中将は、このため米艦の攻撃範囲外から先制攻撃を行うという「アウトレン
      ジ」戦法をとったが、19日朝は空母を飛び立った日本軍機は暗雲のために敵艦隊を
      なかなか発見出来なかった。
       
逆に米軍の駆逐艦に配備したレーダーで捉えられ、戦闘機に上空で待ち伏せされ
      次々と墜落した。
       20
日には小沢艦隊の空母「飛鷹」などを撃沈され、日本に撤退した。
     
米軍の圧勝に終わり、米軍側は「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄したと言われる。
      
6月20日の「大本営機密日誌」には、「われわれの考えた絶対国防圏の思想は、
      遂にこの時をもって瓦解せざるを得なくなった」ある。
      
7月5日、サイパン島の第43師団長の斎藤義次らは「皇国ノ繁栄ヲ祈念シツツ諸士
      ト共に玉砕ス」との玉砕命令を下した。
      
日本軍兵士約4万1千人が亡くなったと言われる。
      
サイパンを失ったことで、東条英機首相の戦争指導に疑問がつき、重臣が離れるき
     っかけにもなり、7月18日に東条内閣は総辞職した。

    
  ○ バンザイ・クリフ

      
島の北端の岬にあり、高さ80メートルの断崖絶壁から米軍に追い詰められた日本
     軍兵士や民間人約5千人が「万歳」などと叫びながら身を投げていった場所と伝えら
     れている。
      
米軍は、この岬を「バンザイ・クリフ」と呼んだ。
      
サイパンにはサトウキビ栽培などに従事する民間人2万5千人ほどがいた。
      
自決した中には女性や子供たちも含まれていたと言われる。
      
8月にはグアム、テニアンも玉砕を余儀なくされた。
      
米軍は3島に基地を急造し、2千キロほど離れた日本をB29爆撃機による攻撃の
  射程に入れた。

        2.    硫黄島の戦い(面積22平方キロ 現東京都小笠原村)

       硫黄島は、東京とサイパン島の中間にあり、日本軍にとっては絶対国防圏(死守)
     島であったが、1945(昭和20)年2月19日に米軍が上陸を開始した。
      
日本本土を攻撃する基地を築くためであった。
       (
このころ東京、名古屋などの諸都市は、サイパン基地を飛び立つ米軍ボーイング
       B29
爆撃機による空襲にさらされていた)

        硫黄島では、5日で陥落出来ると踏んでいた米軍に対して、栗林忠道陸軍中将
      指揮の下、日本軍兵士2万人余が全長約18キロに及ぶ地下壕を作り36日間持久戦を
      展開した。(栗林中将は、「玉砕」を禁じた)
       
しかし、米軍は地下壕を攻略し、3月下旬に占領した。
       
死傷者数は日本軍約2万1千人、米軍は約2万8千人であったと言われる。
       
この為、のちに米軍幹部に「勝者なき戦い」と評価された。
        火山活動の影響で常に高温で、飲み水は雨水頼りであった硫黄島での地下豪生活は
  過酷であったと伝えられている。
   
武器も食料もほとんどなかった。
   
地獄のような飢えと、のどの渇きとの戦いであったとも言える。
   
現在も硫黄島には1万柱余の日本兵士の遺骨が眠る。政府は遺骨の収容に今年度
   着手する予定と言われる。

   2015年1月23日に都主催の戦没者追悼式が行われ、遺族31人が参列して
 鎮魂と平和を祈った。今回で式典は32回目。
   舛添要一知事の式辞を梶原洋福祉保健局長が代読した。
 
「史実を省み、これからの歴史につないでいくことが私たちに課せられた重要な使命」

   *
栗林忠道
   1891年、長野県生まれ。
  
陸軍大学校卒業後、米国に留学。
  
騎兵旅団長などを経て、第109師団長兼小笠原兵団長として、硫黄島防衛戦の総指
 揮をとった。
 
海岸から離れた場所に地下道を張り巡らせる、持久戦をとり、「バンザイ突撃」を
  禁止した。

 
「国の爲重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」

    自民党衆議院議員の新藤義孝氏は、お孫さんにあたる。

         3.沖縄戦

   米軍は1945(昭和20)年3月26日に、弾薬や食料などを備蓄するため本島西方
   の慶良間諸島(けらま)に侵攻し、占領した。
   
4月1日早朝に米軍(プラス英軍)は、本島中部の嘉手納・北谷海岸に艦砲射撃を
      行い、18万人を超す部隊が無血上陸した。
   
そして、その日のうちに北飛行場と中飛行場(現米軍嘉手納)を占領した。
     
大本営作戦課は、沖縄本島を防衛する第32軍に首里周辺での持久戦を指示していた
      と言われている。本土決戦前の「捨て石」として扱われていた(時間稼ぎ)
     
だが、何故攻撃しないのかと批判が高まり、第32軍は総攻撃に転じるが、全て失敗し、
  
兵力は半減したと言われている。
        第32軍司令官の牛島満は、首里戦線を放棄して南部の喜屋武(きやん)への撤退を
      開始した。
       
軍の兵士は約3万人で、10万人余の住民が軍と行動をともにした。
       
兵士の中には身の安全を守るために避難住民が作った壕を占拠した者もいたと言わ
       れる。
       
米軍はガマと呼ばれる壕の頂上に穴をあけ、石油を流し込み日本兵や住民を焼き殺
       したりしたとも言われている。
   
6月23日に司令官の牛島らが自決して、日本軍の組織的な戦闘は終了した。
        日本兵の戦死者は約9万4千人、住民は約12万人余が犠牲になったと伝えられて
       いる。
   
 *米軍は、戦車や迫撃砲、火炎放射器、戦闘機による機銃射撃など約270万発の砲弾で
     日本兵と住民の区別なく無差別攻撃をしたと言われる。
     
住民の多くは「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の砲爆撃によって倒れた。

        *ひめゆり部隊

     
看護要因として軍に動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第1高等女学校の教師・
  生徒による女子学徒隊。
  
南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院に配備され、負傷兵の看護などを担った。
  
5月末には病院の移転で南部に移動。
  
6月18日に戦場に置き去りにされ、240人のうち130人が死亡したと伝えられて
   いる。

        
        
*
特攻

      
沖縄の持久戦を空から支援したのは、知覧をはじめ鹿屋、加世田など南九州各地の
     基地を飛び立つ特攻機だった。
      
沖縄付近で、次々と米艦に体当たり攻撃して散華していった。
      
沖縄方面の神風特攻による戦死者は、3千人に達したと言われる。
      
学徒動員された大学生も多かった。
 

         *戦艦「大和の特攻」(3700人余の将兵)

      
航空特攻に合わせ、連合艦隊は4月5日、戦艦「大和」と軽巡洋艦「矢矧」(やはぎ)
    
など海軍で残存する10隻の第2艦隊に対して、海上特攻として沖縄に突入することを
  命じた。
       1945年4月7日午後、鹿児島県の薩摩半島・坊ノ岬西南西約200キロの海上で、
      日本海軍の旗艦「大和」以下の6隻が沖縄に向う途中に、米軍機386機による魚雷攻
     撃にあい沈没した。
      
山口県・徳山港を出撃して、大隅半島の佐多岬沖で西へ舵を切り、蛇行して沖縄を
  目指したが米軍機に発見された。

    
「 回想 」 伊東孝一歩兵第32連隊第1大隊長
   
「本島周囲のリーフ(サンゴ礁の浅瀬)を見れば、米軍の上陸地点は見当がついたのに、
    上級司令部は、その判断が付かず、最初から持久一辺倒だった」

   「米軍の艦砲射撃はすさまじかった。それでも上陸する時は味方の部隊を撃たないよう
    2.3
時間だけ中断する。上陸地点には、遮蔽物もなく、そこが日本軍が攻撃できる唯
    一の好機だった」

   「持久すると言いながら、米軍と戦う前に沖縄から1個師団を引き抜いた(台湾防衛の
  ため)最初から作戦が間違っていた。」
     (*読売新聞引用 「昭和時代 第4部 敗戦・占領・独立 」2014年3月8日付)

               *
参照 「読売新聞」2014年3月8日付 昭和時代第4部
          
「産経新聞」2014年6月29日付
               2014年8月10日付
               2015年1月28日付

      


    


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