こらん草 (一筆抄)                    


―太平洋戦争を振り返って 2.―

                            
ミッドウェー海戦で戦局は暗転へ   日夏 もえ子



  

 

         2015815日は太平洋戦争終結70年にあたる。
          
日本では、戦争を知らない人が7割に及ぶと言われる現在、戦中生まれの私は、
    この戦争について、幾つか記録しておきたいと筆を執りました。

          
太平洋戦争と、苦しい時代を生きなければならなかった人々に、思いを馳せていた 
           だければ嬉しいです。
 


        
       
 「太平洋戦争を振り返って」 2.             2015年2月2

      ミッドウェー海戦で戦局は暗転へ―

 
      日本軍は、初期段階においては、真珠湾における米太平洋艦隊奇襲の成功、英領
    マレー半島での南下快進撃とシンガポール占領、さらに
蘭印の油田資源確保と目漂を
   達成したと言える。
      
しかし、ミッドウェー海戦での敗北により戦局は暗転していくことになった。


             1.
ミッドウェー海戦

    
 ミッドウェー諸島は、ハワイの北西2000キロ、国際日付変更線のすぐ東にある太平
   洋の小さな島々である。
  
米海軍の陸上基地があり、“ここを叩かない限り、日本本土は爆撃され危ないと言う
     のが連合艦隊司令長官、山本五十六海軍大将の考えであった。
  
これに対して、陸軍参謀本部は反対し、海軍軍令部にも慎重意見があったと言わ 
     れる。
      
しかし、1942418日に、太平洋上の米空母から飛び立った10数機のB25爆撃
     機が東京や名古屋などを空襲したので、山本のミッドウェー攻略作戦が実行されたと
     伝えられている。
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27日に南雲忠一中将を司令官とする「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4空母
     機動部隊が広島湾を出発した。
      
山本司令長官が座乗する旗艦「大和」など主力部隊は、その後方500キロに連なっ 
      た。
      
米太平洋艦隊司令長官に就任したニミッツは、すでに、日本海軍の暗号を解読
      し、 全 容を把握していた。
      
ハワイから空母「エンタープライズ」などを派遣させ、日本軍を待ち伏せしていた。
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5日午前1024分、米軍の急降下爆撃機が「赤城」などを襲った。
  
積んでいた魚雷や自軍の攻撃機が次々と爆発し、「赤城」「加賀」「蒼龍」は沈没
     した。
     
空母「飛龍」が奮闘し、米空母1隻を撃沈したが、米軍機のすさまじい爆撃により炎
     上し、座乗していた山口多聞(たもん)2航空戦隊司令官は、艦と運命を共にしたと
  言われる。
     
連合艦隊は、半日で空母4隻を失い、制海権を米軍に譲り戦局は大きく転換した。
      ミッドウェー海戦は、「暗号解読」などの情報戦で敗北したとも言われる。
     
大本営は国民に真相を隠し、戦果を誇大に伝えた。

         
 *山口多聞(中将)
       
「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」

       
   
ミッドウェー作戦で、唯一生き残った空母「飛龍」に座乗する山口多聞は、上級司令 
      官の命を待たず、独断でこう発信した。
   
山口が高く評価されるのは、優柔不断な作戦指揮官の南雲忠一に対して、敵機動部隊  
  に対する即時攻撃を意見具申するなど、判断が的確で、勇猛果敢だったことだとされ
      ている。
   
連合艦隊の幹部が、沈む空母を見捨てて、次々と他艦に移乗する中、山口は部下と
    水杯を交し、「飛龍」と一緒に大海に沈んでいった。
        1892(
明治25)年、東京生まれ。海軍兵学校卒業後、米国に留学、中米武官を務める 
    など米国通でもあった。
       
訓練の厳しさから猛将とも言われたが、部下から慕われる人望の人でもあった。
   
享年49歳。
   (
読売新聞「昭和時代」第3部 戦前・戦中期) 20131221日付 )

   
       
日本は、ミッドウェー海戦での敗北により制海・制空権を失ったが、さらに日本の
      はるか南にある南太平洋のソロモン諸島のガダルカナル、そしてその西方に位置する
  ニューギニアの戦いでは、約19千人と13万人の日本兵士が犠牲になった。
  
その多くが戦闘で命を失ったのではなく、ジャングルに米豪連合軍に追いつめられて
  の餓死とマラリア、赤痢などの病死であった。
       
日本と米豪連合軍の戦力差は、あまりにも大きかった。

      
 2.餓島・ガダルカナル

   海軍は19427月、豪州軍の基地があるラバウル(豪の北東)を攻略して、航空基地
      として占領した。
       
すぐにラバウルは、豪軍のポートモレスビー基地から飛行する軍機の攻撃にさらされ
      始めた。
        このため海軍は、ガダルカナル島をポートモレスビー攻略の前線基地とするため、約
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千人(多くが基地建設の軍属)を送り、飛行場建設にとりかかった。
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月の初めに1万余の米豪連合軍海兵隊が急襲し、またたくまにガ島を占領した。
       
海軍のラバウル航空隊が零戦と一式陸上攻撃機による反撃を行ったが、成果は乏し
      かったと言われる。
     
818日に陸軍第17軍の一木清直大佐率いる9百人(一木支隊)が駆逐艦に分乗して、
       ガ島に上陸し、夜襲による銃剣突撃を行ったが、米豪連合軍の戦車、機関銃などの前
       にはなす術がなく、ほぼ全滅した。
     
912日には、川口清健率いる歩兵35旅団 (川口支隊)6千人が、ジャングルを
       迂回して米豪軍の背後から夜襲突撃したが奪還に失敗した。
     
10月24日には、蘭印攻略で名高い丸山政男中将率いる陸軍が上陸したが奪還に
       失敗。
      
「兵力の逐次投入は、惨憺たる結果をもたらした。
   
ミッドウェー海戦に敗北した海軍に制海・制空権を取り戻す力はなく、兵員や武器
      弾薬、食料などを積んだ日本の輸送船団は、米空母機動部隊やガ島から発進する航空
    機の餌食となった」
       (2013
年12月21日付 読売新聞 「昭和時代」第3部 戦前・戦中期
)

       1942年12月の大晦日に大本営はガダルカナルからの撤退を決定し、翌43年2
    月から駆逐艦による救出作戦が行われたが、3万人余の兵士のうち、戦死・戦病死者は
    約1万9千人にのぼると伝えられている。

      
  3.東ニューギニアの戦い(現パプアニューギニア)

   
「死の島ニューギニア」と言われるほど、過酷な戦場だった。
        
日本の兵士15万人のうち、約13万人が犠牲になったと言われる。
   
多くは、ジャングルでの餓死、マラリア、赤痢、デング熱などでの病死だったと
        言われる。

        1942年4月、米豪軍機のラバウル基地への攻撃が頻繁となり、連合艦隊は海上
      からポートモスレビーを攻略する作戦を立てた。
       
5月に空母2隻の日本機動部隊と米空母機動部隊がソロモン諸島の珊瑚海で激突し、
      連合艦隊は米空母1隻を撃沈したが、空母2隻を失った。
       
この結果、大本営は陸路からポートモスレビーを攻略することになった。
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月に、陸海軍約1万1千余の部隊が、標高3千メートル級の山が連なるオーエン
      スタンレー山脈を武器弾薬、食料などを担いで踏破し、ポートモスレビーを眼下に望
      む高地まで来た。
       
しかし、米海軍はソロモン海で日本の輸送船団を次々と撃沈した。
        補給を絶たれた陸海軍部隊は、飢えと戦いながらの撤退を余儀なくされた。

          
大本営は、ポートモスレビー攻略を放棄し、東部ニューギニアに約15万の兵力を
      つぎ込んだ。
      だが、
すさまじい米豪軍の攻撃にあい、食料はなく部隊は散り散りになった。
       
生存者は1万3千人、約13万人余が犠牲になったと言われる。


     ―証言―    (読売新聞 2013年12月21日付)

    「ミッドウェーで連合艦隊が大打撃を受け、遠方まで物資を運ぶ手段も危ぶまれている
  のに、あまりにも無茶な作戦だった。

  原因は、陸海軍の情勢判断の誤りだ。
  (
中略戦力(米軍)は圧倒的で、残念ながら44年以降、飛んでいる友軍機を見るこ
     とはなくなった。

      陸大の同期生60人がニューギニアに渡ったが、生き残ったのは私を含めて2人だけ。
      兵隊も指揮官もみんな死んでしまった」 

      
*参照 「読売新聞」2013年12月21日付 昭和時代第3部
          
「産経新聞」2013年6月15日付
               子供たちに伝えたい近現代史
        

 


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