こらん草 (一筆抄)
 

     自分の日常や 大切な人のことなどを綴っています。

―私的なこと―         
                                日夏 もえ子 2015.1.5  




*掲載はアットランダムです。

 

 

      
            
「 人それぞれの使命」
                      2015年1月20日

                                                                                                                                           
  

 ・日夏英太郎     

京都火山天文台にて
  

 

   私が父の消息を知ったのは、2000年の12月、58歳の時だった。


   
父は1942(昭和17)年の秋に私が生れてすぐ、インドネシアに陸軍報道班員 (軍属) として赴いたまま、日本の敗戦後も戻ってこなかったので、戦死したものと思っていた。                                       
 
 
  それが、 親切な知人が「日夏英太郎さんのことが書いてあるわよ」と一冊の本「シネアスト・許泳の昭和」を手渡してくれたのだった。

  父は、日本が朝鮮半島を植民地(1910年 日韓併合)にした頃、半島で生まれた。

  併合時代は、大志を抱く若者たちが日本へ留学生としてやってきた。

  父も映画監督を目指してやってきた、そのうちの1人だった。

  1930年代の松竹下加茂撮影所には、きら星の如く、日本映画界の名監督・有名俳優が名を連ねていた。

  二川文太郎監督には、「雲霞の兇敵
」「
辻斬ざんげ」(日夏英太郎脚色)ほか多数、助監督として使っていただき、父親や兄のように良くしていただいた。
              
 そして、巨匠・衣笠貞之助監督には、大作「大坂夏の陣」などの助監督の1人として起用してもいただいた。

 下加茂映画の3大スターのうち、俳優の高田浩吉さんとは、特に親しく、また長谷川一夫・坂東好太郎さんとも親交があった。

 努力と奮闘の上、日鮮合作「君と僕」を演出することが出来た。
 
(しかし、この映画は、半島の青年を日本の戦争[太平洋戦争]に駆り出す志願兵を 美化したとも言えるので、

  当時の半島の方々には、日本支配の中で批判は出来ないものの、心ではとても受け入れられないものがあったかも知れない)
 
 
 1942年2月15日、陸軍第25軍の部隊が蘭印(インドネシア)の石油資源などを確保するため、英軍が占領して いたシンガポールを陥落させた時にメディアは「万歳・シンガポール陥落」という大見出しをつけた。
  ( 山下奉文(ともゆき)第25軍司令官は、「マレーの虎」と英雄視された)
       
 また、
年2月14日 、蘭印の油田地帯パレンバン上空に日本陸軍空挺部隊の落下傘が開き、製油所を確保した時に

   メディアは空挺部隊を「空の神兵」と呼んだ。

   あいつぐ勝報に、国民の大多数は「万歳!万歳」と 歓喜した。
   (戦争に対する批判は、一切出来ない時代だった)

     
 
 軍歌もたくさん作られた。

  そこには、現在の尺度では、計ることが出来ないものが横たわる。

  父は、とにかく映画を作りたかった。

   太平洋戦争が始まる前後は、軍国映画しか作れなかった 。
   日本では、半島を植民地にしていたから、朝鮮人蔑視がすさまじかった。
       
   父の本意には、朝鮮の素晴しい王宮の歴史、文化などを志願兵映画には違いなかったが内地人に知ってほしいという、願いがこめられていたことは、資料を読み込んだ私には推測がつく。         

   
父が戦後日本や祖国・韓国への帰国を断念したのも、「君と僕」そして、戦時中に日本陸軍16軍参謀部別班の要請を受けて、日本軍が連合国軍側にオーストラリア軍捕虜を蘭印の収容所で如何に優遇しているかを示す映画「豪州への呼び声」を演出したことへの後悔と懺悔があったからとも思われる。

   結果として、父・日夏英太郎は黎明期のインドネシア映画界で、インドネシア初の映画・演劇学校「キノ ドラマ アトリエ」を創設し、有能な人材を輩出し、自らも 「天と地の間で」など3本の映画を演出し、「インドネシア映画の父」と記録されるまでになった。
      
  父の使命は、まさにここにあったと言えるのかも知れない。

  それは、日本映画界で育ててもらったお蔭でもあった。

   日夏英太郎は、もともと日本時代でも身体があまり丈夫ではなく、日本と気候の違う真夏の国で、食事を取る時間も惜しみ、映画撮影に明け暮れたので、早死  (43歳)したのかも知れない。
       
  昨年、父のルーツ調べにソウルから仁川に向う1台の車の中で、韓国の友人たちから、韓国のブログをスマートフォンで見せてもらった。

  そこには、ジャカルタの日夏英太郎の墓参りをしてくれた一般人が文と写真を投稿していた。
  そして、それに私の隣の席のキムジェボム監督(ドキュメンタリー)が、メッセージを寄せていた。
    
  父は、韓国の人々に親日派として嫌われているばかりではないのだと知り、私 は少し気持ちが明るくなった。

        参照: 「シネアスト・許泳の昭和」(ホヨン) 村井吉敬・内海愛子著
            「映画評論」
            松竹映画雑誌「下加茂」

               次回に「続・人それぞれの使命」を書きます。
         

 


        「 続・ 人それぞれの使命」
           2015年1月23日


   私は、1917(大正6)年に生まれ、1960(昭和35)年に43歳 という若さで病死した母を想う 時、まず切なさがよぎる。
  
   幸福な結婚生活を太平洋戦争で引きちぎられ、戦後食糧難の時代を幼い子供たち(兄・憲之助と私)を抱え、必死に生きてきた人だったからだ。

 

母・ハナコ

酒場「キュピドン」2F 

   もえ子の勉強部屋にて


  
多くの都市や町は、空襲で一面の焼け野原となり、 人々はバラック小屋を建てて暮ら した。

   米の配給は滞り、トウモロコシやサツマイモが代用されたがそれさえも欠配がちとなり、 人々は買い出し列車に乗り、農村へ米を買い出しに行き、あるいは、闇市で高いお金を払って食べ物を手に入れ、飢えをしのいだ。

  
旧軍人の復員や一般人の引き揚げで人口が急増し、町は失業者であふれた。

   幸い、父が残してくれた池袋3丁目の家は 焼失を免れた。

   
しかし、働かなければ子供を養うことが出来ず、28歳になっていたハナ コは、銀座のホステスを皮切りに、池袋西口で小料理屋(掘立小屋)を、さらに同繁華街の一角にホステス5人ぐらいを使う洒落た酒場を営み、私を育ててくれた。

 
母は、商才にたけていたと思われる。

  語るのは辛いことだが、兄は10歳で現在の芸術劇場辺りに放置してあった「鉄道プール」で洋服をつけたまま水死した。
 

 我子の姿を探し当てた時は「半狂乱になった」と、母は私に語った。

 
母が、とても愛おしく思える。

 
容姿が、こよなく美しい人であった。
    
  
いつも上等な着物やセンス抜群な洋服を着こなし、颯爽と街を歩いていた。
  
  
家にはよく呉服屋さんが出入りしていたし、私の仮縫いのため知人の洋服屋さんも 時々来ていた。

  
私より歳が一回り歳上の従姉に数年前、「なんで母はあんなに綺麗な着物を身につけていたのだろう」と聞いたことがあった。
 
 
従姉の答えは明快だった。
 
「呉服屋の娘だからよ」

  生い立ちって、人間形成にそんなに影響を及ぼすものなのだろうか。 

  
ハナコは、山陰地方の大きな呉服商の娘に生まれた。
  
しかし、父親の死後、跡を継いだ長兄は店を潰してしまい、一家は上京。
 
夏目漱石も学んだ神保町の金華小学校を卒業し、女学校へ。

 
卒業まじかに銀座を歩いている時に、スカウトされ「森永スゥイートガール」になっ た。
 
ここでも美意識が磨かれたのだろう。
   (
現在で言うと、モデル。あるいはコマーシャルガールか)

 
スゥイートガールのころ、同僚と「京都下加茂撮影所」の高田浩吉さんの楽屋を訪ねた折に、浩吉さんの部屋に来ていた日夏英太郎と出逢った。
 
父が母に一目ぼれして、東京、京都の遠距離恋愛を実らせ、やがて結婚。

  
母は、戦後父の帰りをずっと待っていたが、叶わぬことだと諦めてから、何度も恋をした。

  
入院してから死ぬまで、一回り歳下の同居男性がずっと病室に付き添ってくれていた。
 
 
ハナコは、決して孤独ではなかった。
 
それが私にとっては、救いのような気がする。

  ハナコは、病で入院するまで、長兄の生計や、次兄の娘の就職、姉の娘の世話など身内の面倒をほんとうに良くみたと思う。
 
  
親分肌の性格があったと思う。

  
ハナコの使命って、「何だったのだろうか・・・」と考えた時、そんなことはどうでも良いように思えてきた。
 
  
人は、精一杯生きる。
 
それが、素晴しいことなのだと思えてくる。

  戦前、満州に渡り、満鉄関係の仕事で成功し、故郷に錦を飾った男気のある、ハナコの姉の夫(伯父)が、母の葬儀の席で17歳の私にハナコのことを「女傑だった」と言った。

 
ハナコには、その言葉が一番相応しいのかも知れない。

 


               「 開発途上国での仕事
」             2015年1月28

 

開発途上国の現場にて

T氏 
(画像お借りしています)

 

                            
    日本や先進国と呼ばれる国の多くは、食糧、医療、飲み水、インフラなどが充実して
    いる。

       
しかし世界196か国のうち、開発途上国においては、食料と医療が充たされた段階
      で、今後は水の浄化やゴミ処理工場建設などが待ったなしの状況になっている。
       
日本も敗戦後の1945年から50年代にたどってきた道だ。

      
途上国のために貢献したい!という日本の企業、WFP(
国連食糧計画)などから依頼を
      受けて、日本の優れた技術を用い、現地の方々とも一緒に課題を遂行する知人がいる。

      
世界に目を向けない人が多い中で、開発途上国の人々のため頑張る姿は、やはり
      嬉しい。

      
今回は、そんなTの紹介です (ブログ抜粋)

        20141206
少し早いが一年を振り返る。
今年はよく働いた。
元旦以外休んでいない。
これ以上はどうやっても厳しいと思う。
 しかし嫌々働いたのではない。
 毎日朝が来るとワクワクした。
 そうじゃない日はない。

      仕事中はキツ過ぎて嫌になる時もあった。
 今年一年での一番はなんだろうか?
 例えば、生涯で一番美しい星空を見た。
  ボリビアの中でも特に高地だ。
 最も美しい月を見た。異様にオレンジ色の月だった。
  サモアだった。
  人の心の深く、そして美しいところに出会えた。
 ペルーでのことだった。
 白熱した議論というより、戦いだった。
 日本でのとある打ち合わせのことだった。

     20141209

           アメリカの話になったので
          
ちょっとだけアメリカの会社で働いた時のことを思い出してみたい。
           学生気分が抜けない入社直後、というか入社日にいきなり出向させられたり、
          
ケイマン島のSPCの社長を何個かやらされたりした。
          
社内は世界中と回線で結ばれており今で言うメールが配備されていた。
          
テクノロジーがとにかく進んでいた。圧倒的なスピードの速さである。

          同期入社は1年で6割以上が去っていった。
          しかし私には仕事が面白くてしょうがなかった。
          知的好奇心が満たされる実践の場である
         
物凄い勉強もしなくてはならなかった。
         
土曜日日曜日などあったものではない。
          初年度は休みゼロで元旦から働いた。
         
ついていかなくては生き残れなかった。
         
そういう仕事であったし、そういう時代だったのだと思う
          そこに何の為に働くのかという根本的な答えは 考えないようにしていた。
         
考えることを避けていた。
         
楽しかったし、サラリーマンの何倍も稼いでいるのだからそれで良いのだと思っていた。
         
人生の浪費を随分としてしまい、回り道をしてしまった。
          後悔はしていない。
         
いや、戻りたいと考えたことは一度もないが、
         
何故もっと早く起業しなかったのだろうかという事はある。

          投資銀行時代のことは、正直どこまで自分の役に立っているのかわからない。
          ゼロではないし100ではない。
          ちょっと自分にとっては、長すぎただけなのだと思う。
          しかし、気がついただけマシと考えることにしている。
          人それぞれだろう。

·                 20150103

           起業して8年目。
           昨年は漸くやりたい事を仕事として確立する事ができた年でした。
           一体何年掛けてしまったのだと、己の能力の足りなさに、半ば自嘲するしかありません。
           知人や取引先の企業が上場していくのを尻目に少しずつ慎重に進めてまいりました。
           好きを仕事にする事は私にはとても大変な事でした。
           私が「好きと思う仕事」を事業として成立させている会社が日本にはなかったからです。
           仕事を作るためには自分で起業するしかありませんでした。
      
    現在は、当時の自分が思い描いていた姿とは似てもいないけど、吾、唯、足るを知ることだけは
           できたのだと感じています。

           今年は、いよいよ3年がかりで進めていたプロジェクトの第一の成果として工場が稼働します。
           そして別の地で新たな工場の建設も年の後半から始まります。

           水関係の設備の設置も行われますし、食品関係の工場の建設も始まります。
           アジアの山岳地域と南米アンデスの山岳地帯で今年は仕事を行います。

           いずれも新分野ですのでたくさん勉強しなくてはなりません。
           知的好奇心がウズウズしています。

          20150118

           今回もいろいろなことがありました。
          
奔走し、疲れ果て、そして共に泣き、笑い合い、夕日が海の向こうに沈むところを眺め
           そして星が一つ一つ姿を表す瞬間を眺める
           こうやって信頼が作られていくのでしょう

          この仕事をやっていてよかったなと思うことの一つです
         
地球の裏側まで来て
         
誰もやったことのない事業を構築していくこと
          これはものすごく大変なことだと自覚しています

          この現場が私の仕事場です

 

 
                   「ペットの埋葬」
                         2015年1月10

 

在りし日の
ジュニアール

 

             

          今日は2011810日に亡くなった愛犬ジュニアールの月命日でした。
   
    動物霊園の納骨堂の小さな棚のスペースに小さな骨壺を収めています。
     昨日、新しい水とフードなどをお供えし、「安らかにお休みください」と合掌
         しました。
   
      3年間かかさずお参りしていますが、たまに骨壺を開け、お骨を眺め、 彼を偲ぶ
          こともあります。
       時に迷うことは「合同葬で他のワンチャンと一緒に土にお帰しした ほうがよいの
          か・・・」という思いです。

    今朝ほど、同じマンションの昨年相次いで2匹のワンちゃんを心臓病で亡くした方
        とぱったりお会いして寂しくなられたでしょうとお話ししました。
        
「それは、もう・・・。仕事があるから耐えていられるの」
          
2匹のワンちゃん(エルビス・裕次郎)の骨壺は今も 家に置いてあるそうです。 
      11年前に亡くした1匹のワンチャンのお骨と共に。
 
           
       「日夏さんにいただいたお花を3つの遺骨の間に飾ってあるわ」
      (2011年8月に私の愛犬ジュニアールが亡くなった時に、彼女は綺麗なお花の
             アレンジメント を持って焼香にきてくれたので、お返しにお渡ししただけに
             すぎないので、恐縮てしまいました)

   
      
「とても埋葬する気にはなれないの」とも。
   
        
   私も、もう少し自分の気持ちに任せようと思いました。
                                          
     
                                                                                                1月17日更新


               
     「 充実した一日」    
                     2015年2月7日  

 
          K参議院議員

              
(画像お借りしています)



      
26日は多忙で充実した一日となった。
           
午前中はペットのショータ(ミニチュアダックス)の医者通い。
           
耳をパタパタさせるので、耳の中に液体の薬を入れて洗ってもらい帰宅。
           
午後12時を回っていた。
           
ショータはまた、おしりを度々カーペットにズルので肛門腺の油しぼりも欠か
         せない。
            獣医さん通いは頻繁になる。
           故に
私の細腕は、ますます細ってしまうことになる^j^
    
さて、4日にNaminamiカフェで買ったショクパン(奈美さんお手製)が冷蔵庫
   にあったので、取りだしてほおばり、青色申告会へ急いだ。
          
今日は確定申告書を見てもらい、そして提出する日でもあります。
    
午後1時30分から4時まで待ち、やっと順番が回ってきた。
          (
ああ、この2時間30分もったいなかったなぁ〜とつくづく思った)
    
パソコンでヤヨイ会計ソフトにより作成した決算書をUSBにコピーしたものを
    持参。
    
申告会の担当者は、パソコン画面で普通預金ほか全ての項目をチェックしていく。
    
40分で終了。
    “
良く出来ていますと優しく素敵な担当者(男性)から、お褒めの言葉をもらい
   嬉しくなりつつ、後楽園にある文京シビックセンターへ大急ぎで向かった。
    
    
米盛ヒロト作品展「みんなかぞく。ちきゅうは、ぼくのいえ」を見るためである。
    
今日の展示は午後6時までなので、発車真際の丸の内線に飛び乗った。
    
主催者である小原田泰久・弘美夫妻が会場入口にいらしたので、挨拶させていた
   だいた。
    
自閉症のヒロト君の才能を見出し、支援する。どこまでも温かいご夫妻だ。
    
そして周りには同じように応援する方々が集まっている(チームOGASAWARA)
    
    
ヒロト君の作品には、キリン、ゾウ、クジラ、トリなどが出てくる。
    
その絵は、ほのぼのとして全てが暖かい。
    
観に来て良かった!と、真底思った。
    
大事な何かを教えられた様な気がした。
    
ヒロト君のお母様は、素敵な方だった。
    (
奈美さんと恒平君にも偶然会場で会えて、互いにびっくりした)
    
     米盛ヒロト作品展

    さて、自宅に帰り、一息ついてから録画しておいた本日の国会中継
   「参議院決算委員会質疑」を観た。
    
知人のK議員(無所属・前みんなの党政調会長)の質問の様子を観るためだ。
    
実は昨夜、夫人からメールをもらっていた。
    
相変わらず歯切れが良く、彼の質問は的を得ていた。
   
「景気(雇用など)の動向)」、「中東への原子力輸出はやめるべきではないか」
   
「スカイマークの経営危機はいつ知っていたか」etc・・・
     
彼は日本の政治家で、“経済に精通した数人のうちの1人であるとも言われている。
   「
国の爲、国民のため、今後も頑張って欲しい!」とせつに願った。
 

 


          「 
切なさ&嬉しさが同居した日
          2015年2月15日

 
             ヤンチャなシヨータです。
     

        今日の午前中もまたタクシーに乗り、ペットのショータと獣医さんへ。
  (
小さな車はあるのですが、獣医さんに駐車場がないため残念ながら使えません)

    
日曜日のせいか、狭い待合室は親子連れ(飼い主とペット)でいっぱいでした。
       
自然、隣の方と会話になりました。
       
大きなバッグにオムツをした来月15歳になるメスのワンちゃんがいました。
       
   
半年前ぐらいから足が動かなくなり、寝たままになったそうです。
   
食も細くなり、腸の調子も良くないので診察に来ているのだとか・・・。

   
市販のオムツだと、どうしても便などが脇から漏れるので、通販でピチッとする
  のを見つけて、シッポの先を通して身につけているそうです。

       
かつて私は、別の獣医さんで、歩行困難になったワンちゃんが歩行器を押して歩いて
      いるのを見たことがあります。
       
しかし、この飼い主さんは、歩行器のことは知っているが注文しなかったと言って
      いました。
        
昼間はシートの上に寝かせ、夜は布団で一緒に寝ているそうです。

        
診察中に待合室から、そっと覘いてみました。
        
脚は伸びたままでした。
        
切なくて涙が出てきました。

        
診察室から出てきた飼い主さんとワンちゃんに、玄関のドアを開け「お大事に!」と
       いうのが精一杯でした。

        
人も犬も、「歩けるということがどんなに幸福なことか」と改めて思い知った日でも
       ありました。


       
 
午後は、私の大好きな方たちと会う機会があり、元気をもらいました。
        
ちょっとしたパソコンの勉強会でした。

   
秋ごろにでも、「学んだことが何らかの形で結実すると良いなぁ・・・」と思って
  います。

 


       「赤外線ヒーター購入」       2015年2月17日

 

春が待ち遠しいなあ! Hope

 



            今日は管理の仕事の合間をぬって、2度池袋にあるヤマダ電機へ。
           
近頃、パソコンを長時間打つ私の足元が非常に心もとない(冷たい)
    (エアコンだけでは暖まらないの。部屋がちょっと広いのかもしれない。
     決して豪邸ではありません^o^)
         
           
それで電気ヒーターを購入に出かけたのだが、候補2つのうちで1つを買って
            自宅に運び、早速つけてみた。

            臭いなどの刺激に比較的敏感な私は、目に刺激を感じてしまった。
        
「これは無理だ」とすぐに分かった。

           
約束があったので、そそくさと事務所に戻った。
           
仕事を済ますと4時ごろになっていた。
         
「もう一度ヤマダ電機に行って、もう1つのヒーターを買ってみよう。
      刺激がないかも知れない・・・」

            
思い立ったら実行に移すタイプなので、気がつけば池袋駅地下街を歩いていた。
          
「お腹がすいたなぁ。そういえば昼ごはんを食べてなかったっけ」
            
いつもデパ地下の慌ただしい寿司屋さんで済ませているので、今日は久しぶりに
            パルコの「三笠会館」で洋食をとることにした。
     銀座並木通りに本店を構える「三笠会館」は私の学生時代からの、いわゆる憧れの
    洋食店だった。
     だから現在でも、名前に惹かれてしまうのです♪
    
            
味は“まあまあだった。専用のテーブル席なのでのんびりしたひと時を持つこ
    とが出来たのだが・・・。

           
“料理の写真を撮ってHPにアップしょうかなとバッグから取りだそうとするも
          出てこない。
           
それもその筈、一度帰宅した時に、テーブルに置いたままだったから。
    
はじめて愛用のiPadを忘れたことが、がっかりでもあるし、また少々手持ちぶさ
    たでもあった。

            上の
写真は新たに購入した2台目の赤外線ヒーターです。
          
           
“やっぱり、これも目に少し刺激があるなぁ・・・
            
でも足元が暖かいので、パソコンを打つ時は、これを使おう。
          
「春が待ち遠しいなあ! Hope


          
 *
ほんとうはフィリピン大統領「キリノ氏」と「マニラ市街戦のその後」を書き
              たかったのですが、長くなりましたので次回に致します。


     
 BS1スペシャル「マニラ市街戦 その後

 


                    「
飛蚊症」                  2015127

 

池袋 東武デパート

 

 

        昨日、懸りつけの眼科に行った。
        24
日の仕事帰りに、いつもの様にデパ地下の寿司屋に寄り、カウンターに出された
       海鮮丼を食べようと思うと丼の下に虫が見えるではないか。
     
       
再度目を凝らすと、何も虫などいない。
       
ちょっと安堵して、刺身などをつまみ始めると、何やら前方や斜め横に丸いものが
       飛びかい、何とも落着かない。
       
帰宅後、テレビを観ている時も、パソコンを打っている時も同様だった。

       
医師に妙な感心をされてしまった。
       
眼科は池袋の繁華街の近くにあり、私は子供の頃からお世話になっているのである
       が、現在は3代目(うぅん50歳代か)が跡を継がれている。

      
「今までこの症状が出なかったなんて、よほど強靭な目なのですね」と。
        
聞けば50歳から70歳ぐらいに起こる症状の「飛蚊症」 (ひぶん)との事。
       
そういえば、知人から飛蚊症と網膜剥離のことは聞いたことがあり、レーザー光線を
       当てて快くなったと話していた。

       
医師曰く「9割の人は症状が2週間ぐらいで治まるが、1割が網膜剥離になる可能性が
       あるので、また2週間後ぐらいにいらしてくださいね」
     
「強靭な目なので多分大丈夫」
       
私は、かってにそう決めこんだ。

       
それにしても、待合室は外国の方ばかり。
       
特に外国人が多い池袋を象徴しているのかも知れないが・・・。

        30年前ぐらいは韓国人、それから中国の方々が多くなり、現在は他のアジアの国々、
       中東、アフリカ人と多国籍の方々が目につく。
       
池袋は、まさに国際色豊かな町になっている。
       
日本は平和で民主的、そして働く場もあるので、暮らしやすいのかも知れない。

 


              「経理と青色申告会」 
      2015年1月5日
 


 

池袋の町で           


       プロに頼んでいた経理を約
9年前から「やよい会計ソフト」を採り入れて、
  自分でやるようになりました。今までスムーズに運んできていました。
        
   しかし、今回はリフォームの減価償却の処理が分らなくなり「青色申告会」 
    に飛び込みました。


  親切な指導を受けて、悩みも解消
!
     
     つくづく「青色申告会に入っていて、良かったな・・・」と思いました

    


    

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