こらん草 (一筆抄)                    
 

  一緒に考えていきましょう!!

            
社会のこと(政治・経済・福祉など)   日夏 もえ子



*掲載はアットランダムです。

 

 

      
       ○東日本大震災 5.             
2015年3月11日

        これまで4回にわたり簡略化して、東日本大震災のことを綴ってきました。
       
今なお仮設住宅暮らしを余儀なくされている、あるいは、福島第一原発事故により故郷
     へ戻れないなどにより、県内外で避難生活を送っている人々は、約119000人に上ると
     言われています。

     第5回は、津波で唯一の家族であった母親を失った優太の再生物語を書いてみま した。
   
                                                                                 
 

 
        短編  『母さん、頑張ってるよ』

 

             
                     日夏 もえ子
                                  



        優太は東京の私立W大学法学部3年生であった。

    日本学生支援機構からの奨学金を受けて大學に通っていた。
   

    奨学金は大学生の約半数が利用していると言われる。
   その代り、社会人になってから返済が待っている。
   
      
故郷の岩手県陸前高田市には母親の益子がいて、市の老人施設で働いていた。

      
優太が7歳のとき、父親の彰夫は肺癌を患いかえらぬ人となった。
      
いらい小学2年生の頃から母親と二人きりの生活が続いていた。

   
益子は介護士として働き、ずっと優太の生活を支えてくれていた。
      
裕福とは言えない生活だったが、母子で笑い、本音を話し合い、それなりに楽しい家庭
    であった。

     
たまに益子は、優太が小学生のころ、父親の彰夫のことを優太に語って聞かせた。
   
「お父さんはね、国民学校の1年生の時に太平洋戦争で長野県に学童疎開をしていて、東京   
    大空襲で下町の向島に住んでいた両親を亡くしたのよ。
    
そう1945310日未明に、米軍のB29爆撃機が低空で東京下町に焼夷弾を降らせ、浅
     草、両国などは焼き尽くされたの」

  
「孤児になったお父さんは、教師から東京行の乗車券だけを渡され、やっと東京に着いた
    の。家に向ったけれど焼け野原で家の跡形もなかったのよ」

     
「食べる物もなく、街で物乞いをしている時に東京民生局に保護され、それからは中野の
    養護施設で育った」と話していたわ。

  
「お父さんと同じような戦災孤児は123500余人いたそうよ」

    
幼心にも優太には父親の境遇の辛さが分り、益子の話を神妙に聞いた覚えがある。
 
      
それから何度か益子は、彰夫の自慢をした。
    

   
夜間高校を卒業して、塗装 店で働き20年後に独立したの。
    お父さんは、苦労しているから頑張り屋だったわ。
        
そのころお父さんと東京中野で巡り合っ て、私が一方的に好きになってしまったの 
      よ。
         私より15も年上だったけど、恋愛は年齢とは関係ないのよ。
   結婚してから、私の故郷の陸前高田に二人で戻ってきたの」
    
       
益子は、彰夫の話をする時は、つとに嬉しそうだった。
       
そんな益子は、2011(平成23)311日の東日本大震災で陸前高田を襲った大津波に
     より、流されてもういない。

       
当日、東京のアパートで優太は激しい揺れを感じ、急いでテレビをつけた。

       
画面では、144618秒、マグニチュード9.0の地震が発生し、波高10m以上、最
     大40.1mの津波が東北地方太平洋沿岸部を襲った場面を繰り返し流していた。

  「大変なことになった」と優太は思った。

      
益子への携帯も通じない。メールは送信できたが返信がなかった。
      
優太は翌12日、東北新幹線に飛び乗り仙台まで行き、レンタカーで故郷に向った。

      
途中、道が陥没したりして、思う様に進めなかったが、避難所でルートを教えてもら
     い、どうにか夜に陸前高田に到着することが出来た。

     
我家も、中心部にあった大町商店街も、益子が勤めていた老人施設も壊滅していた。
     
街が消えてなくなっていた。
     
かつて益子から聞かされた「東京大空襲」と同じ光景ではないかと優太は思った。

       益子が生きていてくれることを願った。
   あちこちの避難所を探し回った
   知合いを見つけては、母の行方を尋ねた。
       だが益子の行方は掴めなかった。
   
   やはり、もう生存の望みはないのだろうか。
   優太は切なく苦しいものがこみあげてきた。

   遺体が安置してある場所にも足を運んだ。
   半月後に公民館に運ばれた遺体の中に益子を見つけることが出来た。
       悲しい現実であった。
     
     
「母さん、一緒にいてあげられなくてごめんね!」と、優太はつぶやいた。

       
どんなに益子は辛かったことだろう。
       
俺の来年の大学卒業を楽しみにしてくれていたのに。
       
自分を育てるため、苦労ばかりしてきた母。
     
「親孝行も何も出来なかったね。ごめんなさい」
       
優太は、ひとりごちた。
   そして涙をぬぐった。

        益子の遺体を荼毘に伏した。
   
        それ
からの優太は、避難所で物資が搬送された時の手伝いなどに明け暮れた。
       
卒業後は、手固い銀行などに就職したいと考えていた。
      
しかし震災後は、何か人々の役に立つ仕事に就きたいと考えるようになった。

  
そんな時、横浜で災害緊急・復興・教育支援のNPOを立ち上げ、避難所への物資搬送を
    繰り返していた環境開発会社「HOPE」を経営する松崎社長と知合った。

      HOPE
は、発展途上国のために
廃棄物燃料工場や食料生産工場、さらに水質浄化装置など
   を作り、途上国の環境を改善し、雇用を生むことに尽力している会社であった。
      国連世界食糧計画(WFP)との共同プロジェクトの実施、そして最近では国際協力機構
   (JIKA)や政府開発援助(ODA)などのコンサルティングも行っている。

      また、海外での植林事業も内モンゴル、西ティモール、モザンビークなどで実施しても    
   いた。
      開発途上国での植林は、雇用を生むため、収入の乏しい人々の人道支援にも繋がってい
   る。
     
優太は会社の方針に共鳴し、2012年春にW大学を卒業してから、
HOPEで働いている。
    
インドネシア、フィリピン、ラオス、南米ブラジル、ペルーなどの発展途上国の人々の環
   境を改善し、雇用を生むことに一生懸命取り組んでいる。

     そして折に触れ、途上国から日本がある方向の空を見上げ、両親に語りかけている。

   
「父さん、母さん、頑張ってるからね。」

                        
   ― 完 ―

 

             
      
○東日本大震災    4.福島第一原子力発電所事故と川内村(30キロ圏内)
                                                                     
 

        
            2015年3月9日         



       震災に追い打ちをかけたのが、福島第一原子力発電所の事故だった。
      
福島第一原発は地震から約1時間後に1415mの津波に襲われ、全電源を喪失したと言
   われる。
      
原子炉を冷却出来なくなり、1、2、3号機の原子炉内で核燃料が溶けて底に落ちる炉
   心溶融(メトルダウン)が発生した。

      大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な事故になった。

      1.3号機では冷却手段がないため、燃料棒がむきだしになって大量の水素ガスが発生。
      水素は軽いため原子炉建屋の上部にたまり爆発し、建屋の天井が壊れ、放射性物質が放出
   されたのではないかと言われている。

      12日に1号機、14日に3号機、15日の午前614分に4号機が水素爆発した。

      幸い、何れも格納容器は無事だった。

      東電の中間報告書によれば、14日午後1050分ごろ2号機が「危機的な状況に陥ってい
    た」という。
      2
号機の格納容器の圧力が上がり、爆発が起こる可能性があった。もし格納容器が壊れ
    れば大量被爆のおそれがあったと言われる。
     
2号機の格納容器の圧力は午前720分には7.3気圧あり、午前1125分に約1.5気圧
    にまで下がった。
      3
15日の午前9時に2号機から白い湯気が上がり、原発の正面付近では毎時11930
   イクロシーベルトの放射線を記録したと言われる。

      その3時間前は73.2マイクロシーベルトだった。
      2
号機の格納容器の爆発はかろうじて免れることが出来た。

      福島第一原発の「運命の日」は、315日だったとも言われている。

      放射能が陸側に流れた。
      15
日の風向きや雨などの影響もあり、放射能汚染地帯は北西に帯状に延びた。
     
政府は15日の午前11時に半径2030キロの住民に屋内退避を指示した。
     
その後、強制的避難指示に切替えた。

      20
2年4月、30キロ圏内は政府の避難指示が解除され、帰還の対象となった。
      20
キロ圏内は、201410月に。

    30キロ圏内の川内村は、住民がいち早く戻った最前線の村と言われる。

      下記は NHKスペシャル 「それでも村で生きる〜福島 “帰還した人々の記録」より

  
川内村の放射線量は、国の除染の目安の0.23マイクロシーベルト/時を下回っている。
     
農業、林業が主で、原発事故が起こる前は約3000人が暮していた。
     
避難指示解除後は、半数の1500人ぐらいが帰村したと言われている。
     
しかし、6080代の高齢者が多いのが現実だ。

     
川内はおいしい蕎麦でも知られていた。

      Aさん達は、15000坪の荒地を17年前に村から買った。木を伐り、石を除き開墾し
    て、荒地は豊かな土壌になった。そば畑とし、質の高いそばが収穫できる様になった。

     
しかし今は、除染廃棄物の「仮置き場」になっている。
     
  
川内村の人々は、暮らしを取り戻したいと、誰も経験したことのない再生への模索を続
    けている。

      
雪の中に黄色い福寿草を見つけた村の女性が、感慨深く言いました。
 
      
  強いよね 待っているんだよ福寿草も
                       
ちゃんと雪の中でも  春を待って


   
   
* 除染廃棄物の「仮置き場」
  福島県内には約800箇所あるという
     
福島県知事は除染廃棄物を保管するための中間貯蔵施設(双葉・大熊町)の受入れを決めた
   が、用地確保のため2300人以上の地権者と交渉中)
                            (
産経新聞参照 2015.2.25)

   

 


                  
                           ○東日本大震災 1.                           2015年3月1日

 

 

  「CHALLENGE TO CHANGE JAPAN」
    民による民のための災害緊急・復興・
    教育支援


  
もうじき、私たちが決して忘れられない、風化させてはいけない4年前のあの日がやってきます。
   2011(
平成23)311日、144618秒、マグニチュード9.0、波高10m以上、最大40.1mの津波が東北地方太平洋沿岸部を襲い、壊滅的な被害をもたらした。
2015
19日時点で死者・行方不明者は18,483人と言われています。


   今回は、震災翌日に単独で被災地に人命救助のため入り、数日後、横浜に戻ってから
直ぐにNPO法人「CHALLENGE TO CHANGE JAPAN」を立ち上げ、大型トラックで宮
城県女川町、気仙沼市、石巻市、岩手県陸前高田市などへ救援物資搬送を繰り返したT
の紹介を致します。

     というより、T及びTと共に活動をした社団法人全国廃棄物連合会青年部協議会の支援物
  資搬入の動画を見ていただき、あの震災のむごさを改めて思い出していただければと思い
  ます。
  
     いまなお仮設住宅で暮らし、不自由な思いをしている方々、あるいは大切なご身内を亡
  くされ辛い思いをなさっている方々も大勢いらっしゃいますね。

      
       動画 
CHALLENGE TO CHANGE JAPAN

       物資運搬と女川町などの状況
       
知人T氏が撮影。

                    NPO法人「CHALLENGE TO CHANGE JAPAN

 

 


                                    ○東日本大震災                        3.「奇跡の一本松」

 


 
                 2015年3月6日
 

         岩手県陸前高田市気仙町の高田松原は、太平洋広田湾に面する約7万本の松の木が茂る景勝地でありました(日本百景のひとつ)

 
しかし、2011311日の東北地方太平洋沖地震の津波により、ほとんどの松の木がなぎ倒されてしまった。

  
その中で、松原の西端にある陸前高田ユースホステル敷地内に立っていた一本の松の木だけが残った。
一本松と海との間に陸前高田ユースホステルが建っていたので、津波の緩衝材になったのではないかと推測されている(ユースホステル の建物は一部崩壊)

 
被災地の人々は、津波に耐えた松を復興のシンボルとしてとらえ、
「奇跡の一本松」あるいは「希望の松」と呼ぶようになった。

 
しかし、根が枯れていることが分り、陸前高田市が伐採し、防腐処理を施して、枝葉は複製し、元の場所に戻した。

 
切り取った松の枝の一部を用いて、全日本印章業協会所属の若手職人らが「復興相の公印」や「陸前高田市の公印」を製作しています。
                 (*
参照 産経新聞  201531日付)

   
 NHK  東日本大震災アーカイブス
        復興の軌跡「奇跡の一本松と高田松原」

 

 

 
          
          ○東日本大震災                          2.
陸前高田市場合  
  
   
 
  
     2015年3月3日
 

 

         前回記述した横浜市のNPO法人「CHALLENGE TO CHANGE JAPAN」のT氏などは、
 3
18日から大型トラックで宮城県石巻市、女川町、気仙沼市、岩手県陸前高田市などへ
 の救援物資搬送を繰り返した。

  
そのT氏から当時、下記のような話を聞いたことがあります。

   「陸前高田には
、避難所と認識されている施設だけでも95箇所あり、13,500 名が避難
   所にいた

  
 
23,000名が暮らす大きな街だったが、津波により壊滅的な被害を受けた・・・」
   「陸前高田市の死者・行方不明者はおよそ2,500名にのぼった」と。
 
     震災当日の夜は雪が降っていて、非常に寒く、津波から逃れたものの低体温症で亡くな
  った人が多かったとも言われます。

 
      あまりにも切ないですね。

        今回は、日経メディカルの記事を採り上げてみました。 
 
     「病院を大津波がおそった日」 


 
       記録・撮影 岩手県立高田病院医師 上野正博氏
 

          

 

   

       「ワイツゼッカー氏の逝去」 (東西ドイツ統一時の連邦大統領)
                           
           2015年2月12日

 

 

 

              ボルブドゥール遺蹟
    
  (後方にそびえています)
     
   ジョクジャカルタ 


     「ドイツの良心」と呼ばれた元大統領のワイツゼッカー氏が131日に死去した
   (
享年94)
     2
11日にベルリン大聖堂で国葬が行われた。
      
ドイツが第2次大戦(194145)に敗北後40周年の 198558日に連邦議会で
      行った演説「荒れ野の40年」は、格調高く歴史に残る名演説と言われている。

   ○過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる。

       ナチスドイツによる犯罪を「ドイツ人全員が負う責任」だと強調し、歴史を直視する
  よう国民に促した。


   
*「強制収容所で命を奪われたユダヤ人、虐殺された少数民族や社会的弱者、宗教や
       政治上の信念で処刑された人々、各国の戦死者…。数え切れない死の傍らに悲嘆の
   山並みが続く」

    *「この犯罪を行ったのは少数の者だが、人々は目を背け、沈黙を守り、知らないで
       おこうと努めた。大虐殺など気配も感じなかったと言い張った人はあまりにも多か
       った。罪の有無、老幼を問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばならない。
       過去を変えたり、起こらなかったことにしたりするわけにはいかない」

     *「非人間的な行為を心に刻まない者は再びそうした危険に陥りやすいものだ。
        ヒトラーは常に偏見と敵意と憎悪をかき立てた。
      
 若い人たちにお願いしたい。
        他者への敵意や憎悪に駆り立てられることのないように

        (演題はエジプトを脱出した民が荒野を40年さまよった末、約束の地にたどり着い
   た聖書の伝承にちなむと伝えられている)

         ワイツゼッカー氏は自らも第2次世界大戦に従軍した。
        
父親がナチス・ドイツの外務次官だったため、ドイツ敗戦後、父親はニュルンベル
        グ裁判にかけられた。
        
ワイツゼッカー氏は、大学を休学して父親の弁護を引き受けた弁護士事務所で研修
         し、父親の弁護を手伝ったと言われる。
        
この時、ナチス・ドイツの残虐さ、非人間的な行いなどを直視せざるを得なかった
         とも言われている。
 


 

  BSフジTV  『戦後政治の“目撃者”有識者懇「最終報告」」
         ―財界人X学識者が提言 『余剰幻想に終止符を打つ 』―2015年2月10日放映

                              2015年2月13日
 

 

           和田倉橋(皇居)
   
         パレスホテルから撮影
 


 
 

  「 今日はちょっと良い日になりました 」  

  仕事の帰りに立寄った洒落た大型複合施設=△テラス(スーパー、ブテイック、 食事処
   など)のスーパーで30年来の、旅行もたびたび一緒にした友人にパッタリ会いました。
     
彼女はといえば、目の前の区営スポーツセンターの帰り、私はといえば仕事帰りに
   テラスに寄り、和食を食べ、ゆっくりiPadに目を通してから地下のスーパーに降りたと
   ころでした。
     
テラス内のカフェで近況を報告し合い、まだ二人で行ってなかった「湯布院に是非行
   きたいね」などと話し、サヨナラしました。
          
     
友人は、連れ合いの介護で目下大変でもあります。
     
それでも昨日、短歌を一首作り入会している「短歌の会」に送付したと話していまし
    た。
     
私も刺激を受けました。

   
      
それでは本題に入ります。

      
 
        ―財界人X学識者が提言 『余剰幻想に終止符を打つ 』―

      

   
1960年代、70年代の高度成長期には企業が張り切っていた。
        
どんどん革新をやった。革新をやると新しいものが出て来る。
         (
企業の付加価値が高まる)
        
経済成長に結びついた。(好循環が実現した時代
)

         しかし、ここ数10年間は次の危機的状況にさいなまれている。
   
○人口減少 ○財政大赤字 ○社会保障制度が危ない
   
けれど、政府・国民も逃げている。解決しようとするスタートを切らなかった。
   
現在も下記のように考えている人が多い。
  
・高度成長があり、科学技術が発達して、経済が繁栄して、税収が増えれば問題は解決
       する。(楽観的な潜在意識)

        
 ローマ帝国は、パンとサーカスで滅びた。
        
美味しいものを食べている、楽しいことをしているうちにつぶれた。
        
自己決定能力がない社会は必ずつぶれる。


        
日本は1980年代まで・終身雇用・年功賃金・定年制をどうにか保っていた。
        
長生きすることが状況を変えた。
        
このまま進むと個人が不安になる。色々な境遇に追い込まれていく。
        
21世紀の身を切る世代間契約を結ぶ必要がある(契約のし直し)
         
世代間の格差問題は簡単には取り払えない。
         
政治はシルバーの方に傾いているからだ。
         
若い世代は将来のことを知っているから年金を払わない。
         
今のままではだめになる。改革が必要だ(若者は希望を持つ)
          改革をすることによって良い社会を作ろうではないか。

    先進国では、日本のように定年がある国はない。
          (
アメリカでは80歳代でピンピン働いている)
          元気な
高齢者は働く必要がある(税金を払う立場に・・・)
         
女性は不利な状態でこれまで働いてきた。
         
高齢者と女性がこれまで以上に働くことによって、4050歳代の男性は働きを
         
失うかも知れない。その場合、育児に携っても良いではないか。

         
1990年にドイツの東西統一がなされた。
         
フランスはEUをマーケットに考えた。
         
アメリカは基準通貨を自分たちの国のものにした。
         
他の国では、社会保障などの整理をしたが、日本は出来なかった。
        
「給付は多く、負担は少なく」という国民と、それに合わせる政治だった。
         
日本のマネジメントには、厳しいことを言う政治家を選ぶ必要がある。
         
マスコミの責任も大きい。
         
しかし、今の阿倍政権なら出来る。ラストチャンスだ。


          
○次世代に残すべき日本の姿

           A
氏 軽武装を続ける。 経済重視。
             (
世界の人口は35億から75億になった。そしてやがて90億になる。
             
日本はアジアの国々より3040年進んでいる。経済が苦しい時こそ、経済援助で   
              世界に貢献を)

           B
氏 勤勉 (財政再建を達成するためにも受け継いでほしい)

           C
氏 品位と尊厳を以て生き抜く社会
             (
やるべきことを我慢してやり抜いて行く。日本が国際的に評価されるのでは
     ないか)

                    
   プライムニュース


 

 
                   「情報戦略」         
2015年1月9

 



 



都ホテルからの景観
京都東山・蹴上(けあげ)

右上に「南禅寺」が見えます。



 


         テレビはBSフジ「プライムニュース」(午後8〜10)をよく観る。
     1月7日は、桜井よしこ、秦郁彦氏が出演し「太平洋戦争」(194145)の    
     情報戦略についても語っていた。

    
1940年11月頃から日本の外交(外務省)暗号は、すでに米軍に読まれて           
            いた(つつぬけ)そうだ。

  
    〇42年6月の「ミッドウェイ海戦」は、日米両空母による航空決戦であった。
    日本軍は、空母4隻他が撃沈され、制海権・航空権を失い戦局は転換した。

    
海軍の暗号は、ミッドウェイ海戦直前に米軍に解読されていたとか・・・。

     〇ミッドウェイ海戦を指揮した「山本五十六連合艦隊司令官」は、翌43年陸   
             上攻撃機に乗り、ラバウル基地からブイン基地に移動中、ブーゲンビル島上
             空で米軍機に撃墜され戦死。

    
山本五十六連合艦隊司令官の移動も米軍に読まれていた結果だそうだ。
  

      心が震撼した。

            「 プライムニュース」



 
 

    「 女性の貧困・子供の貧困 」        2015年1月13

 

 


 

大覚寺・大沢池
京都嵯峨野

 

     日本では6人に1人の子供が貧困であるという。
           衝撃的な数字であった。
     
 母子世帯2世帯のうち1世帯の子供は貧困であるという。
         (2012年は、平均年収(税金・社会保険などを除く手取り収入)の半分122
         
万円に満たない所帯の割合は16.1%で、これらの世帯で暮らす18歳未満の
          子供の貧困率は16.3%)
   
            女性の貧困、子供の貧困が際立っている。
        母子世帯が増加する中で、働く母親の多くが給与水準の低い非正規雇用と
          いうことが大きいのかも知れない。
    
          先日テレビの@報道番組(高齢女性の貧困)Aニュース特集(若い女性の
          貧困)が採り上げていた。
  
         @
では、国民年金を65千円、25千円受給している二人の高齢女性。
         身体が不自由で公団に住んでいるが外出は出来ず、ベッドから隣の部屋の
           冷蔵庫に行くのがやっとで、家賃、食費、ヘルパー代、薬代などを年金65
          
千円でまかなっている (すでに夫と長男は他界)
     
       もう一人は地方在住の方で、家があるので生活保護は受けられず、月一度
         町の病院に診察を受けに行き、診察代と薬代を払うと、食費は出せないの
         で、川や畑で食糧を調達 (自給自足)
 
           たくましい生き方に感動すら覚えた。
           自営業者の場合は、老後、国民年金だけで暮らすのはなかなか厳しい。
     
        2064歳の1人暮らしの女性では、相対的貧困率は33.3%。
       70歳では46.3%が貧困(産経新聞)
       女性の場合は、給与水準の低い非正規雇用が多いことも要因かも知れない。

     (日本は、バブル崩壊後の1991年ごろから長期不況[デフレ 失われた20
    で
格差社会になった。女性、男性問わず生活は苦しいと言える)
 
    A
のニュース特集は次回に書きたいと思います。

 

 
    続「
女性の貧困・子供の貧困 」      2015年1月16日
 

        タイ チャプラ川


       前回は、日本では6人に1人の子供が貧困であり、単身で暮らす女性の3人に
     1人が貧困状態にあること等を述べました。

    テレビのニュース特集では2人の20代女性の現実を捉えていました。
     
      例@地方から上京して東京で就職したものの、対人関係が巧くいかず退職。
   再就職先が見つからず、アパートの家賃を払えず繁華街にある「インター
        ネットカフェ」で寝泊まりすることに。狭くて寝返りはしにくいが、シャワー
      は使えるし、長期滞在だと費用も割安になる。食事はカップラーメン。
    100円ショップで買った化粧品でメークをして、夕方仕事先(性風俗店)に通
      う。
         収入の中から、苦しい生活をしている郷里の母親に毎月15,000円を仕送り
       している。
   「送金したよ」とメールをするのが何よりの楽しみだ(生き甲斐)。
    母親から「有難う」と♡つきのメールが届く。

    テレビを観ていて、私は、何だか「ほろり」としてしまった。

    例Aは、北海道在住で派遣で働いている。収入は12万円。
    家賃は6万円。生活費はきりつめなければやってはいけない。
    毎週仕事先での昼間の弁当は、休みの日にまとめてつくった同じもの。
    出勤は、交通費を倹約するため自転車で通う。
    雨、雪の日は1時間かけて徒歩で。

    これら2例が、独身女性の生活しにくい現状を如実に物語る。
    また、シングルマザーの生活水準は、先進国の中で、日本は最下位である。
     非正規社員で賃金が安い。
     女性の賃金は正社員でも男性の7割にしかならない。
     歴然たる格差が横たわる。
     介護職や保育所で働く女性が多いが、賃金が安い。

    安倍政権は、女性の社会進出、役員登用を積極的に推進しようとしている。
    大いに歓迎することだが、今後独身女性、シングルマザーの生活がボトムア
         ップするとは、なかなか思えない。

     明治・大正・戦前の昭和時代は、農村では飢饉もしばしば起こり、家の爲、
   食いぶち減らしのため、身売りされた女性が後をたたなかった。

    戦後の1948(昭和23)年1月1日から新民法が施行され、戸主による家族の
        支配 (家制度)は廃止され、女性の尊厳も保たれるようになったが、今度は
      家のためでなく、やむを得ず自らのため、子供を育てるため、出会い系サイ
        トで売春したり、性産業で働く女性も多い。

    どうしたら、より良い方向に進むのだろうか。

     *20141118日 産経新聞参照
 

 


             
                 WEBショップ           2015年2月28日

 


 
            夕暮れ時のショッピングセンター
    より撮影

               東京豊島区


      27は約1ヵ月ぶりに自宅の掃除を3時間かけて済ませた。
    
「何、1ヵ月に1度だと・・・」
     
目玉をまん◎にした方もいるかも知れませんが、大体そんな按配でやっております^o^

  
午後130分ごろより、昼食抜きで取りかかったので、「腹ペコ」になり、小さな車に飛 
   び乗り、洒落た大型複合ショッピングの中にある和食屋さんへ。
     
夕方の5時までにinすると私の気に入りの「お昼の彩り定食」が食べられるのです。
     
無事間に合い、タケノコごはんや、天ぷらなどを頬張りました。

     
たまに思うのです。
      おもに
物書きをしている時にですが、「お腹がすかなかったら、ずっと書いていられるの
   に」と。

  
食事の合間に、iPadで自身の3つのウエブサイト「越境の映画監督」「京都歴史散歩」
  「キノ・ ドラマ・アトリエ」と息子たちのHPやブログに目を通しました。
    
2人とも元気にやっているな・・・」と安堵。

     
私は、大体において深刻な事を「こらん草」で綴っていますので、今回は、手作り作品や
    楽しい絵などを販売するストアーをご紹介いたします♪
     
手先が器用な方は、チャレンジするのも良いかもしれませんね。

      ○手作り作品販売
          
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「スタンプ」

 

 

 

 

 

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